DIY 魂を具現化するための手続き的アイテム

コンパクトで安っい作業台を組み立ててみた。バイスがベンチとかそんな感じの。とりあえず体重をかけたら天板がしなる。おおう、こんなものなのか。まあ、材料を置かずに 1カ所に重さがかかるとか、そういうシチュエーションはなさそうだしな。軽量だし、なんかたためるし、こういうものなのだろう。安っいゴミみたいな机に 2個バイスをつければ、似たようなモンだけど、まー似たような感じか。バイスバイスって、ああ、万力な。そうだ。マンリキだ。確かに。あの、いたずらで指をはさんでゆっくり締めていくと予想以上に痛くてすげー何これリキマンじゃんリキマンすげーになるやつ。こんなのイジってんのって、もうガキの頃以来じゃないかと。思い出してみれば、中学生の頃に技術の時間に触って以来だろうし、あれ、案外記憶ないな。色々やってたような気がするんだけど。あの頃はマガジンラックをつくってたような。ニスは塗った。それくらいしか記憶がない。何しろ設計してないからな。材料を言われた通りに切ってつないで塗って終わり、みたいな。流れ作業的な。あと、小学生の頃はいとこんちに端材と釘が何でか物置みたいなところに置いてあって、なんか色々つくってたな。船とか。浮かべる気はないけど、造形だけ。あれは記憶にある。ごたごたとつくっていた。ある意味設計からやってるから、楽しくて記憶に残ってるんだろう。そう、DIY は一定の模倣をしてから創造主へと変貌するのが楽しいのだ。その時点で記憶へ深く染みこんでいたのだろう。何かを造る。いいねえ。DIY は今や 3D な感じで PC でウリャウリャ出来るから、その時点が楽しい。実際に作成するのは最早おまけに近い。しかし、脳内の脳汁を費やした造形が実際に世の中に現れてしまうのはやっぱり神々しいというか、人の手ってすごいねって言うか、まあ、そんなところだ。そんで、創造主にはたっぷりと次の脳汁を発生する何かドーパミンみたいなのが与えられ、次の創造へと結びつくのだろう。DIY にがっぷりハマってる人たちは、みんな神だ。この世になかったものをこの世に遣わす悦び。まー安くて寸法がやりたい放題でジャストフィットするし、それなりに便利だからやってるだけだけども。まあいい。子どもの頃はあれだ、材料の下に敷く端材みたいなの、あれだ、ウマとか、そんなのもロクに当てずにやっていた。地面が作業台だったのだなあ。あれから数十年して、やっと四足歩行に近い作業スタイルをやめ、二足で作業をすることになるようだ。そういう意味で、作業台は大地と同じ。大地から何かを創造する神へ、私はやっと進化したようだ